モンテッソーリの幼児教育とは

幼児教育 積み木

皆さまこんばんは。
今日はモンテッソーリの幼児教育についてお話したいと思います。
最近では、将棋の史上最年少プロ棋士、藤井聡太四段がモンテッソーリの教育を受けたということで話題になりました。

モンテッソーリについては、学べば学ぶほど、今の流行りの教育方針、非認知能力などと共通するところがあり、看過できない考え方であることに気づきます。

本内容だけで要旨がわかるよう、下記にまとめます。

目次

モンテッソーリとは?

モンテッソーリはローマ大学の医学部に女性として初めて入学し、優秀な成績で卒業しました。彼女は自由に活動する子供たちを観察しながら、どのような感じ方、考え方をするか、どのような法則が見いだせるか研究を続けました。
この結果、得た大きな結論は「自分一人でできるように手伝ってね」という子供の願いを聞き入れること。これが色々言われているモンテッソーリ教育の本質です。

これは、どの家庭でも子供から発する機会があるものです。これに対して、大人の対応は様々ですが、いかに自立を促すか、が大切であって、すぐに手を出して、手取り足取り教えるのはダメ、とされています。

では、モンテッソーリの言葉を具体的に挙げていきましょう。

子どもの体に仕えることではなく、生命に仕える。

モンテッソーリは、子供の成長段階を0歳~5歳、6歳~11歳、12歳~17歳、18~24歳までの4段階に分けて考えており、成長段階に見合った教育をすべきと唱えています。

言い換えると、親はまず、親と子供は全く異なるということを親が正しく認識し、親のエゴで親のものさしで判断して、子どもを教育してはならないということを言っています。

例えば、服を着せたり顔を洗ってやったりすることは体に仕えることを意味し、奴隷のすることと表現しています。これに対して、子どもが自分の心と体を使って、上記成長段階に見合った課題に取り組めるよう励まし、導くことが生命に仕えることとモンテッソーリは表現しています。

これを現代に置き換えると、親が子供の顔を洗って、タオルで拭いて、服を着せて、その行動の一つ一つに指導を入れる、、、という行動は体に仕えることとなります。

また、親の身勝手な断片的な指導に基づいて、子どもの頃から教育を押し付けることも危険で、子どもが大きくなるにしたがって、いつか関係が破綻する危険がはらむこととなります。

これは、幼児期の早期教育に警鐘を鳴らすもので、私も気をつけなければならないと感じています。

敏感期とは

モンテッソーリ教育においては、「敏感期」という言葉が良く出てきます。
敏感期とは、もともとは19世紀後半から20世紀前半にかけてド・フリースという生物学者によって提唱された言葉です。モンテッソーリは、この生物学で発見された考え方を教育にも利用し、広げました。

敏感期においては、発展途上にある生命が、自然から課された命題を成し遂げるために内面から押し上げてくる強い生命力をもっているとされます。

発育中の生物は、幼少期にのみもつ独特の生命力をもち、自然が定めたプログラムに基づいて発生する色々な課題を乗り越える原動力となるとしています。

モンテッソーリは、敏感期を毛虫を事例に、下記のように説明しています。

蝶は卵を産むとき、葉の先ではなく、枝の分かれ目など安全な場所を選び、産卵します。しかし、卵から孵った毛虫は、最初は柔らかい新芽しか食べることができません。この毛虫はどのように枝の先の新芽までたどり着くでしょうか?

この点、生まれたての毛虫のみ、光の感受性が高く、光のあるほうへ進む修正があるようです。この結果、自然と新芽がある方へ毛虫は進み、新芽を食べて大きくなる。大きくなるにつれて、光に対して鈍感になってきて、下の方に降りてくるそうです。

ここで言いたいことは、幼少期しか発揮できない特別な能力があるということです。

他に鶯やインコの事例があります。
鶯は、ホーホケキョと鳴きますが、常時に鳴くものとそうでないものがありますが、幼少期に、鳴くのが上手な鶯の横で育った鶯は、綺麗に鳴くようです。また、インコにおいても、ある特定の時期を逃すと、うまく物まねができなくなるようです。

まとめると、敏感期とは、生物が幼少期に特定の能力を得るために、特定の事象に対して、感受性が敏感になっている期間のことと言えます。

人間に置き換えて要約すると、子どものうちしか学べないことがあり、後になって気づいてももう遅いですよということですね。

モンテッソーリも、この時期を逃すと、終電のバスに乗り遅れることと表現しています。

人間の敏感期

モンテッソーリは、3歳を起点にして、3歳までに上品な環境で成長したものは、それ以降、どのような環境になってもその上品さを失わないし、逆に下品な環境で3歳まで成長した場合は、それ以降、そのような雰囲気を持ち続けると言っています。

これは、七田の提唱する「無限の吸収力」と通じますね。七田は褒めながら頭をフル回転させて伸ばすスタンスです。好きなようにとことんやらせるモンテッソーリとは完全一致しませんが、向いている方向はある程度似通っています。

モンテッソーリもこの吸収力に注目し、3歳までは色々なものを内面にためるインプット、3歳以降はそれを整理する期間と表現しています。

つまり、3歳までは周りに豊かな言語にあふれ、家族に愛されて安定した精神が養われ、多くの文化や自然に触れるのが望ましいということですね。

モンテッソーリは、当時の日本の独特の習慣として、おんぶして仕事をする日本の文化を賞賛していたようです。親が色々なことをしているのを全てみることができるからです。

次に、3歳から6歳において、重要な敏感期が訪れます。
これは、感覚と、筋肉運動です。

3歳から6歳においては、3歳までと比べて、五感を通じて繊細なところまで識別できるようになり、創造的な人間になるか否かが決定づけられるとされています。

運動についても、3歳以降は自分の思う通りに体を動かせるようになるため、大人がやっている運動をじっと観察して、それを模倣して何度何度も繰り返しやってみようとします。

確かによく見ますが、子どもは大人のやっていることを真似して、何度も何度も繰り返しますね。何かに夢中になっているときに親がまずできることは、すぐに手を差し伸べるのではなく、よく観察することでしょう。

モンテッソーリを導入している幼稚園でよく、好きなことをとことんやらせるという一言で説明されますが、その経緯は上記の通りです。

子どもが夢中になっているときは、子どもが伸びているときとも解釈できます。親が見せて、それを子供にやらせて、見守るという表現でも良いですね。非常に共感できる考え方です。

この考え方を忘れないようにしたいと思います。

 

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